本能寺の変で信長が最初に謀反を疑った人物は

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本能寺で宿泊していた織田信長が、謀反に気付いて最初に名前を挙げたのは意外な人物でした。

明け方午前4時頃に、急にあたりが騒がしくなり目を覚ました信長ですが、信長も小姓衆もこの喧噪を最初は下々の者の喧嘩と思っていました。しかし、しばらくすると鬨の声が上がり、御殿に鉄砲が打ち込まれたので謀反だと確信します。

信長が「こは謀反か。如何なる者の企てぞ(これは謀反か。誰のしわざだ)」と蘭丸に尋ね、蘭丸は「明智が者と見え申し候(明智の軍と見受けます)」と言上する。これは『信長公記』に記された一場面ですが、『三河物語』によると御殿の表に回った信長が「城之介が別心か(信忠の謀反か)」と蘭丸に尋ね、「明智が別心と見え申(明智の謀反と見受けます)」と答えるとあります。

息子の信忠を最初に疑うとはどういうことなのでしょうか。その理由は、この事件の前日のことにありました。

信長の上洛を祝って公卿や勅使が本能寺を訪れ、挨拶の後に皆で雑談をしていたときのことです。信長と信忠が国の政策について意見が合わず、大勢の公卿の前で親子喧嘩をしていました。
ただ、このとき不快感を示したのは信忠のみならず、同席していた公卿らも同様でした。

それというのも信長は、朝廷が定めた「京暦」を東国が多く使用している民間暦の「三島暦」へ変更しようとしていたのです。
暦の制定は天皇および朝廷の権利であり、明らかに越権行為です。

信長が問題にしていた暦は、1582(天正10)年の暦なのですが、三島暦では12月に閏12月を制定したのに対し、京暦では翌年の1月に閏1月を置きました。
これにより、同じ領内で2種類の暦が存在することになり、困惑した暦業者が信長に閏月を天正10年閏12月に統一して欲しいと要請してきました。

陰陽寮と業者の間では、なかなか解決しない問題なので、信長は自己判断で閏月を12月に置くよう決定しました。

信忠も改暦には、猛反発しました。信長にしてみれば家督を譲った息子にまで反対されるとは思ってもいなかったのでしょう。
公卿らと一緒に反論してくる息子に危機感を抱き、謀反を疑ったものと思われます。

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