石川五右衛門が残酷な処刑をされた理由

石川五右衛門

豊臣秀吉の時代に出没した稀代の大泥棒・石川五右衛門の名は、多くの創作物が広まっているので知らない人はいないでしょう。

五右衛門に関する史料が少なく、その存在は疑問視されていましたが、スペインの貿易商ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』や公家の山科言経の日記『言経卿記』、儒学者・林羅山編纂の『豊臣秀吉譜』にその名や処刑された様子が記されていたことから、実在の人物であったとされています。

捕まった五右衛門が釜茹での刑にされたのも有名な話です。
どちらかというと活躍よりこちらのほうが有名でしょうか。
このとき、処刑されたのは五右衛門自身だけでなく、母親と子供も同様に処刑されました。

いくら盗賊で世間を騒がせたとはいえ、斬首ではなく『釜茹での刑』とは刑が重すぎる気がします。しかし、これには理由がありました。
ちなみに、処刑方法は釜で茹でられたというのが一般的ですが、史料に残る記述は釜煎りとなっています。
水も油もいれない釜で、そのまま煎られたと・・・どちらにしても恐ろしい処刑方法です。

石川五右衛門が捕まったのは、豊臣秀吉の寝所でした。
なぜそんなところに忍び込んでいたのか。
それは、秀吉を暗殺しようとしていたからです。

五右衛門は、盗賊以外にも暗殺者という顔を持っていました。
豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されたという説。
五右衛門自身が、秀吉によって謀殺された丹後国の伊久知城主・石川左衛門尉秀門の次男で、父の恨みを晴らそうとしたという説があります。

すでに天下人となっていた豊臣秀吉の暗殺未遂という重罪を犯したからこそ、見せしめのために惨い処刑方法が選ばれたのでした。

しかし、当時の処刑は恐ろしい方法が多いですね。好んでやっていたとしか思えません。その話は、いずれまた。

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