三日月宗近

みかづきむねちか

三日月宗近(みかづきむねちか)は、平安時代に作られたとされる日本刀(太刀)で、「鬼丸国綱」・「数珠丸恒次」・「童子切安綱」・「大典太光世」と並び「天下五剣」と呼ばれ、日本の国宝に指定されています。

平安時代の刀工・三条宗近の作で、刀身に鎬と反りのある日本刀としては最も古い形式をしています。細身で反りが大きく、切先に向かうにつれて反りの無くなる優雅な姿をしており、「名物中の名物」、「天下五剣」の筆頭として称えられています。

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「三日月」の名の由来は、刀縁に沿って三日月状の文様がいくつもかかっており、光にかざすとまるで月が浮かんでいるように見えることから、そう呼ばれるようになりました。「長享銘盡」に「三日月ト云太刀造之」とあることから、遅くても室町中期には、すでに「三日月宗近」と呼ばれていたことになります。制作年代については、11世紀末から12世紀頃といわれていますが、10世紀末頃という説もあり、はっきりしていません。

権大納言・日野内光は、柳本賢治が京都に攻め上がってきた際に細川高国の軍に加わり、当時「五阿弥切り」とよばれていた三日月宗近で防戦しましたが、1527(大永7)年に恵勝寺合戦で討死にしました。その後、友軍だった畑山卜山がその菩提を弔うため、三日月宗近を高野山に納めたということが徳川家の記録にあるといわれていますが、徳川将軍家の「御腰物台帳」には記されていません。畑山卜山とは畑山尚順のことであり、尚順は内光より5年前の1522(大永2)年に病死しているため、卜山による三日月宗近奉納説は成立しないとされています。

足利将軍家の秘蔵の名刀として継承され、1565(永禄8)年、松永久秀と三好三人衆が二条御所を襲撃して将軍足利義輝を殺害した(永禄の変)際には、義輝はこの三日月宗近を振るって奮戦したと伝えられています。変の後に戦利品として三好政康の手に渡り、後に政康から豊臣秀吉に献上されたという伝来がありますが、両話共にこれを裏付ける史料はありません。

出雲の尼子家忠臣・山中鹿之助に秀吉の正室である高台院(北政所おね)が宗近を譲ったという説もあります。尼子家は、山陰地方に一大勢力を築いた戦国大名ですが、毛利元就に滅ぼされました。しかし、鹿之助は尼子家再興をあきらめず、三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったといわれています。軍装にも三日月を使用してため、宗近がふさわしいと高台院は考えたのでしょう。ところが、鹿之助は高台院に宗近を返上し、1578(天正6)年に尼子氏再興の願いのかなわぬまま暗殺されてしまいました。
三日月宗近には古い糸巻太刀の拵えがついています。柄はありませんが、鞘には桐と菊の金蒔絵があり、金具にはすべて三日月・雲・桐などの色絵が施されています。三日月を信仰した鹿之助が、この拵えを作らせたのかも知れません。

しかし、高台院から宗近を譲られた山中鹿之助は、尼子家の家臣とは別人であるという説があります。秀吉に仕えて一万石を与えられていた山中山城守長俊の一族という説、毛利隆元の家臣で後に高台院に仕えた山中姓の一人という説など、高台院から徳川秀忠に送られる以前の伝来については確定していません。

秀吉の死後、宗近は高台院が形見として受け継ぎました。そして、1624(寛永元)年に死去すると、さらに形見として徳川幕府2代将軍・秀忠に贈られました。

太平洋戦争後に徳川公爵家(徳川将軍家)から、金貸しを経て他の個人所蔵になり、その後、当時の所蔵者から東京国立博物館に寄贈されました。

指定:国宝
種類:太刀
銘:三条(名物:三日月宗近)
刀派:三条(三条宗近)
長さ:80.0cm
反り:2.7cm
拵:巻太刀拵鞘
鞘長:85.3cm
所蔵:東京国立博物館蔵

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