黄金のドクロは盃ではなかった

1574(天正2)年の元旦でのこと。岐阜の稲葉山城では織田信長による盛大な年賀の酒宴が開かれていました。着実に勢力を広げている織田家の酒宴は大いに盛り上がり、信長もたいそう上機嫌でした。

宴もたけなわとなり内輪の宴となった頃、信長は近習にある物を持ってくるように命じました。
すぐにそれは信長の目の前に置かれました。黒塗りの立派な箱です。
そしてその箱を一人の家臣に開けるに命じます。

おそるおそる家臣が箱を開けると、中には金色に輝くドクロが3つ、白木の台に並べられていました。これは、前年に討ち滅ぼした朝倉義景と浅井久政・長政親子のものでした。

ぎょっとする家臣の顔を見た信長はたいへん面白がり、盃に加工したドクロで酒を飲むよう強要します。震えあがる家臣たちと3つのドクロを酒の肴に信長は満足そうに杯を重ねました。

信長の残虐性を語るエピソードとしてよく引き合いに出されるこの話ですが、後世に創作されたものでした。
ただ、まったくのデタラメではなく、信長の家臣太田牛一が著した『信長公記』には、正月の宴に義景、久政、長政3人の頭蓋骨を箔濃にしたものが、膳に据え置かれて出てきたと記されています。

杯ではなく、酒宴に興を添えるものとして出されたようです。討ち取った首の数で勇を競ったこの時代ですから、3人の頭骨は家臣たちの労をねぎらう為のものだったのでしょう。これを見た家臣たちも震え上がるどころか、さらに盛り上がったといいます。

そして箔濃(はくだみ)とは、漆を塗って金粉で塗り固めることで、古来中国では死者に敬意を表す行為として用いられていました。
一見、死者を冒涜しているように思われるこの行為ですが、妹の夫だった長政の一族へ信長なりの心遣いだったのかもしれません。

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