大谷吉継が友情を誓った日

1587(天正15)年、大阪城で開かれた茶会には豊臣諸将が多く招かれていました。
その中には、越前敦賀城主である大谷吉継の姿もありましたが、吉継がこういった催しに参加するのはとても珍しいことでした。
というのも、吉継は病のために顔の皮膚がただれ、それを隠すために顔全体を白い布で覆っているのですが、その姿を人から奇異の目で見られることを嫌ったためでした。
しかし、秀吉からの誘いでは断ることもできず、仕方なく参加を決めるのでした。

今回の茶会は、秀吉が点てた茶を招かれた客で回し飲みにするというものです。
茶会が始まり、茶の入った器が諸将に回されました。それを皆で少しずつすすり、器と味と香りを楽しみました。

和やかに茶会は進み、吉継の元にも器が回ってきました。
他の者たちと同じように茶を少しすすり次の者に渡そうとしたそのときのことです。
吉継の顔から膿が一滴茶碗に落ちました。

茶会の場は、一瞬にして凍り付いたようになりました。
吉継の病のことは皆知っており、感染を恐れて吉継の手にある茶碗を取ろうとするものは誰もいませんでした。
智将として知られる吉継も自分の失態に動転し、どうすることもできずに固まっていると、その茶碗を手にする者がいました。
秀吉の小姓として仕え、治部少輔となった石田三成です。

茶碗を受け取った三成は、何とその茶を全て飲み干してしまいました。
そして、秀吉に向かってこういいます。

「関白殿、入れていただいた茶の美味しさに堪らず全て飲んでしまいました。申し訳ありませんが、もう一杯入れていただけますでしょうか」

秀吉は笑ってもう一度茶を点て、それを残りの諸将は回し飲みしました。
気まずい雰囲気が漂いながらも茶会は進み、無事に終えることができました。

吉継は三成のこの行動にとても感動し、永遠の友情を心に固く誓いました。

こののち、関ヶ原の合戦の際には無謀と知りつつも三成の西軍に与し、誰よりも果敢に戦い、そして誰よりも見事に散るのでした。

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