死後千年以上続く平将門の怨念

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東京都千代田区大手町に「将門塚(しょうもんづか)」と呼ばれる旧跡があります。通称「将門の首塚」と呼ばれるこの場所には、今も続く怨念の話があります。

940(天慶3)年、平将門は天慶の乱にて討ち死し、その首は遥か平安京まで運ばれました。
京都七条河原でさらし首にされた将門の首は、まるで生きているかのように目を見開き、歯ぎしりをしているようだったといいます。

そして3日目のこと、将門の首は自らの体を求めて東へと飛び立ったというのです。武蔵の国まで飛んだところで力尽き、芝崎村(現在の東京都千代田区)に落ちました。
首が落ちた当時、大地は轟音とともに大きく揺れ、太陽は隠れて闇夜のようになったといいます。恐れた村人たちは塚を築き、首を手厚く埋葬しました。
その後もたびたび祟りが起こるので、将門に『蓮阿弥陀仏』という法名を贈り、日輪寺にて供養したところ祟りは鎮まりました。

しかし、1923(大正12)年に関東大震災が起こり、首塚は倒壊しました。あたり一帯は整地されることになり、塚を撤去して大蔵省の仮庁舎が建てられることになりました。すると、祟りが起こり始めます。
工事関係者や大蔵省の職員、当時の大蔵大臣を含む14名もが2年の間に原因不明のまま亡くなるという事件が起こりました。さらに多くのけが人が続出したため、将門の祟りだと噂されるようになりました。大蔵省は仮庁舎を取り壊し、神田明神の宮司による盛大な将門鎮魂祭を執り行いました。これにより祟りは収まりました。

しかし、1940(昭和15)年、将門没後千年目にあたる年のことです。大蔵省本庁舎に雷が落ち、官庁街もろとも火災のために全焼しました。太平洋戦争が始まって祭事が疎かになっていたことが原因と思われ、大蔵大臣が将門鎮魂祭を催したといいます。

また、第二次世界大戦後、GHQにより首塚周辺の区画整理が行われようとしたとき、またしても原因不明の事故が相次ぎました。工事は中止され、塚は地元の人達により管理され、毎年慰霊祭が行われているということです。

死後千年以上経った今も続く怨念とは・・・
自らを『新皇』と名乗り朝廷に対し謀反を企てたといわれていますが、これは敵の策略だったという話もあります。
恋人にも裏切られて迎えた死の瞬間には、恨みしか残らなかったのでしょうか。

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首塚の境内には蛙の置物がたくさん奉納されています。これは、将門の首が飛んで帰ったことから『帰る(カエル)』にかけて、会社員が左遷先から戻れるように、行方不明者が無事帰るようにとの願いを込めて蛙を供えているからだそうです。

『勝てば官軍、負ければ賊軍』、勝者の立場で語られる歴史なので真実はわかりませんが、今もなお恐れられ、それでも慕われている庶民が語り継いできた姿が本当の将門なのかもしれません。

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