朝倉の撤退に焦る武田信玄の手紙

武田信玄は、織田・徳川勢を追い詰めるために朝廷を始め、大阪本願寺・朝倉義景・足利義昭などと共に包囲網を展開しました。 しかし、朝倉義景が軍勢を近江から撤退させてしまい、包囲網は崩壊します。

以下は、野田城を陥落させた翌日の元亀4年(1573)2月16日に、足利義昭の側近宛に出した書状です。

来翰披閲、令得其意候。 今度任于大坂并朝倉義景催促、到遠州出馬候。 大坂之事者法中之儀無是非候。 畢竟義景申合候処、帰國失途轍候。 雖然、其以後数度之戦功、就中野田之城責落、城主以下生捕、信州へ遣し候。 此処悉皆使?見聞候条、不能紙面候。 漸義景可為出張歟、申合可及行候。 委曲從板坂法印所可申越候。恐惶謹言。

二月十六日

信玄

東考軒

文意

そちらから来た書簡を見て、その内容を把握した。
しかしながら、このたびは大坂本願寺ならびに朝倉義景からの催促を受けて、遠州に至るまで出馬したのだ。
大阪本願寺が攻められたのは、道理のうちの事だから仕方が無い。結局、義景と協同して信長を攻めようと申し合わせていたところ、義景が近江から撤兵し帰国したので勝てる筋道を失ってしまった。
それにもかかわらず、それ以後も数度もの戦功をあげ、特に三河野田城を攻め落とし、城主・菅沼定盈以下を生け捕り、信濃へ送った。これらのことはことごとくみな使僧が見聞しておるので、ことさら紙面に書くに及ばない。
いいかげん義景は出陣するべきではないのか。申し合わせて今こそ行軍に及ぶべきだ。
詳しいことは板坂江雪斎より申し寄越すところとなろう。
謹んで申し上げる。

わざわざ遠州(静岡県西部地方)にまで来たのに義景のせいで勝てなくなってしまったと、怒り心頭の信玄です。

この年に信玄は亡くなっているので、既に体調の悪さは自覚していたことでしょう。
ゆえに、この文面から感じる苛立ちは、焦りからのものだったと思われます。

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